2025-03-30 | 初信者成就シリーズ
十二使徒の教え(紀元75-90年)
主日に関しては、「十二使徒の教え」(聖書以外の最初の教会の書物であり、およそ紀元七十五年から九十年の間に書かれたものであり、少なくとも啓示録と同時代のものである)という書物の中に、以下のような言葉があります、「主日ごとに、あなたがたは共に集まって、自分の罪を告白した後、パンをさき、感謝をささげなければなりません。そうすれば、あなたがたがささげるささげ物は清められます」。これは、信者が主日の集会において、第一世紀の終わりごろにこのようにしていたことをはっきりと見せています。
イグナチウス(紀元100年)
使徒ヨハネに一人の弟子がおり、その名をイグナチウスと言い、彼は紀元三十年に生まれ、紀元百七年に殉教しました。彼は紀元百年の時、一通の手紙をマイニシア地方の者に書き送りました。この一通の手紙の第九章の中で、彼ははっきりと言っています、「あなたがたは昔の教える人(ユダヤ教の人たちを指す)にしたがって、第七日の安息日を守ることは、もはや今日すべきではありません。主日を守るべきです。なぜなら、その日にわたしたちの命は彼と共に発芽したからです」。これもまたはっきりと、初期の教会が安息日を守っていたのではなく、主日を守っていたことを見せています。
バルナバ(紀元120年)
およそ紀元百二十年にバルナバ(聖書に出てくるバルナバではない)が書いた一通の手紙の第十五章に次の一句があります、「わたしたちは喜んで第八日、つまり主イエスが死から復活された日を守ります」。
エスティノス(紀元138年)
さらにもう一人の教父がおり、人は彼のことを殉教者エスティノスと呼び、教父たちの中ではかなり有名な人です。彼は紀元百年に生まれ、紀元百六十五年に殉教しました。紀元百三十八年の時、彼は「弁証論」という書物を書きました。その書物の中で彼は言っています「日曜日つまり週の初めの日に、すべて町に住んでいる者とその町以外に住んでいる者は共に集まり、みなで使徒の伝記と預言者の著作を読みます。時間が許す限り、読めるだけ読みます。読み終わったら、数句の教える言葉があれば、導く兄弟が、それらの良い事に習うようにとみなに勧めをします。後ほどわたしたち全体は立ち上がって祈り、祈り終わったらパンとぶどう酒を持ってきて、導く人が祈りと感謝をささげ、全員が心を一つにして「アーメン」と言います。富んでいる人も、心から喜んでささげる人も、各自はその感謝にふさわしい額をささげます。それを集めて処理する人に託し、その人が孤児や寡婦、病人、必要のある人、捕らわれている人、わたしたちの間で集会している人を顧みます。言い換えれば、必要のあるすべての人を顧みるのです。日曜日はわたしたちの普通の集会の日です。なぜなら、イエス・キリスト、わたしたちの救い主がこの日に死から復活されたからです。主は土曜日の前日に釘づけられ、土曜日の翌日、つまり日曜日に彼の使徒や弟子たちに現れ、彼らにこの事を教えられました。今日この事をあなたがたに書き送るので、それを考慮するようにしてください」。さらにもう一箇所で彼は言っています、「わたしたちは罪と過ちの中から、わたしたちの主イエス・キリストを通して割礼を受けました。彼は週の初めの日に、死から復活されました。ですから、この日はすべての日の中で主要な日、第一日となったのです」。
メリト(紀元170年)
紀元百七十年、サルデスに在る教会に、メリトと呼ばれた教父がいました。彼の書いた本の中に光のような一句があります、「わたしたちは今日、主の復活の日を過ごしています。この時わたしたちは多くの手紙を読みます」。
クレメンス(紀元194年)
紀元百九十四年、アレクサンドリア市にクレメンスという有名な教父がいました。彼は炎のように言いました、「第七日は今日、働きの日となっています。それはまた普通の働きの日でもあります」。続けて彼はまた言っています、「わたしたちは主日を守るべきです」。
テルトゥリアヌス(紀元200年)
紀元二百年、教父テルトゥリアヌスは言いました、「主日に、わたしたちは特に喜びに満たされます。わたしたちはこの日を、すなわち主の復活の日を守ります。妨げもなく、心配事もありません」。そのころすでに、主日を守ることは太陽を礼拝することであると批判する人がいたので、テルトゥリアヌスは彼らに答えて言いました、「わたしたちは主日に喜びます。わたしたちは太陽を礼拝しているのではありません。わたしたちは、怠けて土曜日に宴会しているような人たちとは異なります」。
オリゲネス
オリゲネスは、教父たちの中でも有名な一人ですが、彼はアレクサンドリアの有名な神学者です。彼は、「主日を守ることは完全なクリスチャンであることのしるしです」と言っています。
週の初めの日は安息日ではない
ある人は、古代の信者たちは安息日を守っていたのであり、第四世紀にコンスタンティヌスが週の初めの日を守るように改めさせたのである、と言います。これは事実に合いません。コンスタンティヌスは、この日を改めたのではなく、この事実を認めたのにすぎません。というのは、教会はすでに長い間、主日を守ってきていたからです。紀元三百十三年の前までは、クリスチャンは迫害を受けました。紀元三百十三年の後、コンスタンティヌスはローマを支配し、ミラノ地方で一つの詔書を発布し、クリスチャンを迫害することを禁じました。紀元三百二十一年、コンスタンティヌスは第二の詔書を発布し、言いました、「主日には、役人も一般民衆も、町に住む者はみな休むべきであり、すべての仕事は停止すべきである」。
この詔書の中でコンスタンティヌスは、初めから終わりまで安息日には全く触れておらず、ただ週の初めの日が教会の日であることを認めただけでした。
以上の資料の中から、主日を守ることは、使徒と教会の教父たちの時から始まり、これが各時代の実行であったことを知ることができます。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十四編
出版元:日本福音書房
2025-03-23 | 初信者成就シリーズ
クリスチャンには地上で一つの基本的な権利があります。それは祈りが答えられるということです。あなたが主イエスを信じ、再生されたなら、神は一つの基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。ヨハネによる福音書第16章には、わたしたちが主の御名の中で求める時、神は答えてくださり、わたしたちの喜びが満たされる、と言っています。ですから、わたしたちが絶えず祈るなら、地上で喜んでいるクリスチャンになることができます。
もしあなたがいつも祈っているのに、「神は祈りを聞いてくださらない」と感じているのであれば、それはあなたに問題があることを知らなければなりません。また。あなたがクリスチャンになって何年も経つのに、一、二度しか祈りが聞かれたことがないというなら、それはあなたという人に欠陥があることを証明しています。この記事では、神が祈りに答えられる条件と祈りを実行する方法を共に学んでいきたいと思います。
Ⅰ. 祈りが答えられる条件
祈りが答えられる基本的な条件は多くありません。もし、このいくつかの条件にしたがって祈るなら、祈りは答えられると信じます。これから話すことはすべて基本的な条件ですから、わたしたちはそれらに注意を払うべきです。この基本的な条件は五つあります。
- 求める
- 悪い求め方をしてはいけない
- 罪を対処する
- 信じる
- ずっと求め続ける
これら一つ一つを詳しく見ていきましょう。
A. 求める
すべての祈りはみな、神の御前で真実に求めるものでなければなりません。主は言われます、「求めよ、そうすれば、あなたがたに与えられる。捜せ、そうすれば、見いだす。門をたたけ、そうすれば、あなたがたに開かれる」(マタイ7:7)。例えば、ここに一つのものがあり、あそこに一つのものがあるとします。それでは、あなたはいったい何が欲しいのですか?神は、あなたが何を欲しがっているのか、何を求めているのかを知ってはじめて、あなたにそれを与えられます。ですから、求めるという意味は、ある特定のものを求めることです。
たとえば、今日あなたが何かが欲しければ、父親に向かってその何かを言うでしょう。レストランに行けば、何を食べたいかを店員さんに言うでしょう。しかし、奇妙なことに、人は神の御前に行って何が欲しいかを言わないのです。ヤコブは手紙の中でこのようにいいました、「あなたがたが得ることがないのは、求めないからです」(ヤコブ4:2)。多くの人に祈るという行為はありますが、求めるものがありません。祈る時、必ず何が欠けているか、何が欲しいかを言い出さなければなりません。これが第一の条件です。
B. 悪い求め方をしてはいけない
わたしたちは神の御前で求めるべきですが、二番目の条件があります。それは悪い求め方をしないことです。「求めても得られないのは、・・・悪い求め方をするからです」(ヤコブ4:3)。わたしたちは、必要があるから神に求めるのであって、何の必要もなしに、度を超えて気ままに求めることはできません。自分の欲望や肉にしたがって、不必要な事物を勝手に求めてはいけません。
悪い求め方をするとは、あなたの度量を超えて、あなたの必要を超えて、あなたの真の欠乏を超えて求めることです。あなたが必要があれば、神に求めることができます。あなたの必要を超えて求めることは、悪い求め方をすることです。わたしたちは自分の正当な範囲内で祈ることを学ぶべきです。これが第二の条件です。
C. 罪を対処する
ある人は、求めることは求め、また悪い求め方もしないのですが、それでも神は彼の祈りを聞かれません。それは基本的な妨げ、すなわち神と彼との間に罪があるという妨げがあるからです。詩篇にはこのような御言葉があります。「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない」(詩篇66:18)。人がもし心に不義をいだいているなら、主は聞いてくださいません。「心に不義がある」とは、捨てることのできていない罪があるということです。自分では知っているのに、心の中に保留している罪があるということです。一つの罪があるだけで、あなたの祈りが神に聞かれないほどの妨げとなります。
箴言第28章13節はいいます、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみをうける」。あなたは主に言わなければなりません、「心にいだいていた不義を、わたしは手放せないでいました。今わたしを赦してください。わたしはそれを捨てたいのです。この罪から離れるようにわたしを救ってください。」あなたが神の御前で罪を告白するなら、主はあなたを赦してくださいます(第一ヨハネ1:9)。そうすれば、あなたの祈りは神に聞かれます。
D. 信じる
もう一つの条件があります。それは積極面で「信じる」ことです。主イエスはこのように言われました、「あなたがたが祈って求めるものはすべて、受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」(マルコ11:24)。祈り求めるだけで終わりではありません。祈り求め、そして信じるのです。もう受けたと信じるなら、そのとおりになります。主はここで、「受けたと信じるなら、そのとおりになる」と言われました。主は「必ずそのようになると信じなさい」とは言っていません。「もう受けた」と信じるのです。信じるとは「もう受けた」と信じることです。
多くのクリスチャンは「信じること」に関して間違っています。この「信じる」を「もう受けた」から取り外して、「そのとおりになる」の下にくっつけるのです。彼らは、「そのとおりになると信じる」ことを信仰であると勘違いしています。違います。「もう受けた」と信じるのです。祈りに関する信仰とは何でしょう?それは、神があなたの祈りをすでに聞かれたという確信です。あなたがひざまずいて祈っている時、ある時点になって「神に感謝します!神はわたしの祈りを聞いてくださいました。神に感謝します!このことはもう解決しました」と言ってしまいます。これが信仰であり、「もう受けた」です。
例えば、あなたが一人の病人のために祈るとします。彼は「神に感謝します!わたしはいやされました」を言います。熱はまだ高く、少しの変化もないのですが、彼の内側ではっきりしていさえすれば、もう何の問題もないのです。もし彼が「ああ、わたしは主がこの病気をいやしてくださると信じます」と言うなら、その次になおも多くの「信じる」がなければならなくなります。主イエスは言われました、「もう受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。主は「そのとおりになると信じれば、そのとおりになる」と言われたのではありません。言葉を逆にしてはいけません。
信仰についてマルコによる福音書から具体的な例を用いてさらに詳しく見てみましょう。マルコによる福音書には、祈りに関して特に役に立つ三つの言葉があります。第一は主の力の問題であり、第二は主の意志の問題であり、第三は主の行為の問題です。
1. 主の力 – 神はできる
マルコによる福音書第9章で、自分の息子が口の利けない霊にとりつかれ、それをイエスの元に連れてきた父親が言いました、「もしあなたに何かできるのでしたら、わたしたちをあわれんでお助けください」(マルコ9:22)。主イエスは言われました、「『もしあなたにできるなら』と言うのか。信じる者にはすべての事ができるのだ」。これはできるかできないかの問題ではなく、主の力を信じるか信じないかの問題です。
信じることについて、第一に解決しなければならない問題は、人は困難の中にある時、疑いに満ち、神の力を信じることができないということです。「人にはできない事でも、神にはできる」(ルカ18:27)のです。
2. 主の意志 – 神はそうされる
確かに彼はおできになります。しかし、どのようにしてわたしたちは、主がわたしをいやしてくださるかを知ることができるのでしょうか?わたしたちは主の意志を知りません。主はわたしたちをいやしてくださるかもしれないし、いやしてくださならいかもしれません。どうしたらいいのでしょうか?もう一つの物語を見てみましょう。
マルコによる福音書第1章40、41節はいいます、「 すると、一人のらい病の人がイエスの所に来て、彼に懇願し、ひざまずいて言った、『あなたがそのつもりであるなら、(みこころであれば、他訳)わたしを清めることができます』。イエスは深くあわれんで、手を伸ばして彼に触れ、そして言われた、『わたしは良しとする。清くなりなさい!』」。ここに神がしてくださるかどうかの問題があります。もし神にわたしたちの病をいやす気持ちがなければ、神の力がどんなに大きくても、それはわたしたちと何の関係もありません。しかし、ここではイエスは深くあわれんで、触れて癒してくださったことを見ます。ですから、解決を要する第一の問題は神ができるということを信じることであり、解決を要する第二の問題は、神はしてくださるということを信じることです。らい病人は主に求め、主は彼を清くされました。わたしたちの主が病をいやされないことはあるでしょうか?
3. 主の行為 – 神はすでに成された
「神はできる」「神はしてくださる」と知っただけではまだ不十分です。もう一つは「神はすでに成された」と信じることです。これは先ほど取り上げた事柄です。信仰とは、「神はできる」「神はそうされる」「神はすでに成し遂げられた」と信じることです。信仰は待ち望むのではありません。待ち望むとは、将来のそうなることを期待することであり、信じるとは、それがすでに成されたと考えることです。「神はすでに成された」を信じるなら、自然と神への感謝が出てくるでしょう。
E. ずっと求め続ける
祈りには、注意しなければならないことがあります。それは、継続しなければならず、やめてはいけないということです。「彼らが絶えず祈るべきであり、また失望しないように」(ルカ18:1)。ある祈りは、ずっと祈り続ける必要があります。主が煩わしいと感じ、わたしたちの祈りを聞かないではいられなくなる程度にまで祈り込むのです。
これはわたしたちへのテストです。というのは多くの場合、わたしたちの祈りは一週間も続かないからです。それは、真にわたしたちが求めていなかったことを暴露します。ある種の切迫した環境にあり、ある必要な状況の下にあって、心がそれによって動かされてこそ、ずっと祈り続けることができます。
早見表
祈りが答えられる条件
条件 | 説明 |
---|
A.求めること | 祈りにおいて、神に対して具体的に願いを伝えること。 |
B.悪い求め方をしないこと | 自己中心的な欲望に基づかず、正しい態度で求めること。 |
C.罪を対処すること | 神との妨げとなる罪を認識し、告白して捨てること。 |
D.信じること | 祈りが神に聞かれ、答えがすでに与えられたと信じること。 |
E.求め続けること | 一度で答えが得られなくても、祈りを続ける忍耐を持つこと。 |
Ⅱ. 二段階の祈り
祈りには二つの段階があることを知らなければなりません。第一段階は、約束がないところから祈って約束を得るまで、神の言葉がないところから祈って神の言葉を得るまでです。すべての祈りの開始の時は、みな神に求めるものであって、ずっと求め、三年、五年と費やしてずっと求めなければなりません。この第一段階は「求める期間」です。
第二段階は、約束があって、その約束が実現するまで、神の言葉を受けてから、その言葉が成就するまでです。この第二段階は「賛美の期間」です。この段階では、祈り求めるのではなく、賛美すべきです。第一段階では祈り求め、第二段階では賛美します。第一段階は、言葉がないところから祈って言葉があるまでであり、第二段階は、言葉があったらすぐに主を賛美し、求めていた物が手に入るまで賛美し続けます。これが祈りの秘訣です。
多くの人が理解している祈りには二つの事実しかありません。一点は、わたしは持っていない、わたしは祈るという「求めた」という事実です。もう一点は、わたしは得た、神がわたしに与えたという「受けた」という事実です。例えば、わたしが主の御前で腕時計を与えてくださるように求めるとします。数日たって、主はわたしに一つの腕時計を下さいました。これは腕時計を持っていない状態から求めたという事実があり、腕時計が与えられたという状態という受けたという二点があるだけです。しかし、真の祈りにはその間にもう一点、「信じた」という事実があるべきです。多くのクリスチャンがこのことを知りません。
わたしは祈って腕時計を求めます。ある日わたしは、「神に感謝します。神はすでにわたしの祈りを聞かれました」といいます。この時、依然としてわたしの手元には何もありませんが、内側では、得たことがはっきりしました。そして、数日後に腕時計が手に入るのです。わたしたちは「求めた」「受けた」という二点を見るだけでなく、「信じた」という三点目を見なければなりません。何も持っていない状態から「求める」ということから、それを受けるまでの間にもう一点、神が言葉を与えられた、約束してくださった、わたしは信じた、わたしは喜んだ、があるのです。まだ手元には何もないかもしれません。しかし、霊の中ではすでに得ているのです。クリスチャンにはこの霊の中で得るということがあるべきです。霊の中で得たこの種の感覚がなければ、それは信仰がないことです。
ある時、わたしは主から家族の救いのために祈るように導かれました。わたしは両親と姉と弟のために祈り始めました。わたしは数日間、主の御前に出て、一人一人の名前を挙げて祈りました。これは求める期間でした。それから数週間後、わたしは主のあわれみによって神がわたしたちに与えられた救いの約束は、個人を単位としているのではなく、家を単位としていることを見ました。使徒行伝16章31節はいいます、「すると彼らは言った、「主イエスを信じなさい.そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。聖書の中に、神は人を家族ごとに救われるという一つの基本的な原則があります。例えば、ノアの家族(創7:1)、過越にあずかる家族(出12:3-4)、遊女ラハブの家族(ヨシュア2:18-19)、ザアカイの家族(ルカ19:9)、コルネリオの家族(11:14)、ルデヤの家族(15節)、ここの獄吏の家族、第18章8節のクリスポの家族のようにです。わたしはこの主の言葉を受けてから、求める祈りから賛美する祈りに変わりました。わたしはまだ何も得ていませんが、霊の中にはすでに与えられたという信仰があるのです。
なぜ二つの段階に分けるのでしょうか?それは、物がないところから祈って信仰を得たのに、もしまた祈り求めるなら、信仰はかえって逃げ去るからです。ですから、信仰を得たならすぐに賛美をしなければなりません。信仰があって物がまだない時、賛美をもって神に催促すべきであり、祈り求めることによって神に催促するべきではありません。
早見表
段階 | 説明 |
---|
第一段階:求めること | 神に対して具体的に願いを求める段階。 |
第二段階:賛美をささげること | 霊の中で約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげる段階。 |
第三段階:実際に受けること | 実際に願ったものが与えられる段階。 |
Ⅲ. 祈りを実行する方法
最後にどのように祈りを実行するかの具体的方法を交わりたいと思います。まず重要なことは、祈る前に一冊の祈りのノートを用意することです。一年に一冊のノートを用意し、祈りを記載します。そして、各ページを四つの項目に区切ります。第一項目は祈りを始めた日付、第二項目は祈る事柄、第三項目は答えられた日付、第四項目は神がどのように祈りを聞かれたかです。こうすれば、一年の間にどれだけあなたが神に要求し、どれだけ神が聞かれたか、またどれだけ残っているかがわかります。
祈りのノートを活用することによって、祈りが神に聞かれているかどうかを知ることができます。神の答えが止まったら、必ずあなたに欠陥があります。ノートに記された祈りはすべて、神の答えを得るまで祈り続けなければなりません。神があなたのその祈りは神のみこころではないと示された時だけ、停止するのです。それ以外は、得るまで祈り続け、決してたるんではいけません。
祈りのノートを用いる時に注意すべきことがあります。ある事柄は毎日祈る必要がありますが、ある事柄は一週間に一回祈ればいいことです。これは、あなたの祈る項目がどれだけあるかで決まります。あなたの求めるものが少ない場合、ノートに書かれた項目を毎日祈ることができます。項目が多ければ少し工夫して、月曜日には何項目祈り、火曜日に何項目祈ることにします。祈りのノートを活用するためには専一の祈りがなければなりません。あなたは自分自身を訓練して、専ら(もっぱら)祈るための時間を持つべきです。
祈りには、祈る側と祈られる側の両側があります。祈られる側に変化して欲しいなら、祈る側の人がまず変化しなければなりません。もし祈り続けているのに一向に状態の変化が見られないなら、神の御前で尋ね求めて言わなければなりません、「主よ!わたしにはどんな変化が必要なのでしょうか?わたしにまだ対処していない罪があるのでしょうか?手放さなければならない好き好みがあるのでしょうか?わたしには学ばなければならない学課があるのでしょうか?」自分自身が変化していないのに、他の人の変化を期待することはできません。
まとめ
あなたが主を信じ、受け入れるなら基本的な権利を与えられます。それは、あなたが神に求めることができ、神はあなたの祈りを聞かれるということです。しかし、この祈りが答えられるためには条件があります。第一に求めること。第二に悪い求め方はしてはいけないこと。第三に罪を対処すること。第四に信じること。第五に求め続けることです。
あなたの祈りには三つの段階があるべきです。第一段階は、求めることです。第二段階は、約束が与えられ、まだ手元には何もないけれども賛美をささげることです。そして第三段階で、実際に受けることです。何もない時には求める時期です。求め続けるなら霊の中で信仰(確信、約束)が与えられます。この時から賛美の時期に移行します。そして、実際に手に入れるまで賛美し続けます。
具体的に祈るために祈りのノートを用意すべきです。専一な祈りのために一日に30分間の祈りの時間を確保することをおすすめしたいと思います。前回の聖書を読む実行を30分、この祈りの実行を30分、一日に合計1時間の時間を主にささげるなら多くの収穫を得るでしょう。聖書を読むための四つの基本原則と実践的ガイド – 聖書の読み方 – 初信者シリーズ 7
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第十編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳第3版(2015)からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」
2025-03-20 | ウォッチマン・ニー
ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)は、中国において神に大きく用いられた主のしもべであり、多くの霊的著作を通して世界中のクリスチャンに深い影響を与えました。彼の生涯は神の召しに忠実に応答し続け、真理の啓示と実践において大胆かつ誠実でありました。彼の働きと召会(教会)の回復のための務めは、今なお多くの人々の信仰の土台となっています。
以下はウォッチマン・ニーの生涯年表です。
Ⅰ. ウォッチマン・ニー(倪柝聲)の生涯年表
第一期:初期の召命と真理の発見(1903-1927年)
- 1903年: 中国福建省福州にて敬虔なクリスチャン家庭に生まれる。
- 1920年4月:17歳で救われ、主に仕えるよう召される。
- 1921年:バプテスマの真理を知り、マーガレット・バーバーと母と共にバプテスマを受ける。
- 1922年:パンさき(主の食卓)に関する真理を知り、福州でパンさき集会を始める。また、宗派から離れ、地方召会を設立。
- 1923年:『現在の証し』雑誌を創刊。
- 1924年:杭州を訪問し、各地で福音を宣べ伝える。
- 1925年10月:母とマレーシアのシティアワンを訪問。『クリスチャン』雑誌を出版開始。東南アジア最初の召会を設立。
- 1926年:廈門、同安、南京などで召会を設立、南京の大学で働く。『霊の人』執筆開始。
- 1927年:上海の召会を設立、上海福音書房を成立。
第二期:国際的な務めの拡大と真理の出版(1928-1939年)
- 1928年:上海で第一回勝利の特別集会を導く(主題:「神の永遠のご計画とキリストの勝利」)。
- 1929年:『霊の人』完成・出版。『聖書についてのメッセージ記録』『小さな群れの詩歌』発行。
- 1931年10月:上海で第二回勝利の特別集会(主題:「新契約と神の知恵」)。
- 1932年6月:煙台(チーフー)で召会設立。
- 1933年:ヨーロッパ(フランス、英国)、カナダ、米国を訪問し、各地で語る。年末に『ニューズレターの収集』を発行。
- 1934年:第三回特別集会(主題:「キリストは神の中心性と普遍性である」「神の勝利者」)と第四回特別集会(杭州、主題:「どのようにして勝利者となるか」「霊的戦い」)。
- 1936年:上海郊外の真姑に訓練センター建設。
- 1937年:上海で『正常なキリスト者の召会生活』のメッセージを解き放つ。マニラ、シンガポール、マレーシア訪問。『開かれた門』出版。
- 1938年:英国訪問、T・オースチン・スパークスと会う。
- 1939年:上海の友華村で訓練を実施。
第三期:訓練と迫害の中での忠実さ(1948-1972年)
- 1948年:上海の召会を復興させる。鼓嶺で第一回訓練指導。
- 1949年:鼓嶺で第二回訓練指導。
- 1950年:香港、廈門、チーフーの召会を訪問。
- 1952年:共産主義政権により主のために投獄。
- 1972年:獄中にて主に召される。享年70歳。
ウォッチマン・ニーの働きは、中国国内外の教会に大きな影響を与え、今もその霊的遺産が世界中のクリスチャンに継承されています。
参考書籍
今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房
2025-03-19 | ウォッチマン・ニー
ウォッチマン・ニー(倪柝聲:ニー・トゥォーシェン)彼は、20世紀の中国において神に大きく用いられた主のしもべです。彼は中国大陸において1920年の17歳でクリスチャンになり、執筆を始めました。彼は約30年間の務めを通して、この時代における主の動きのために、主から彼のからだへ与えられたユニークな賜物であることが明らかされました。1952年に彼は共産主義政権によって投獄され、1972年の死まで監獄に入れられたままでした。彼の言葉は、世界中のクリスチャンたちへの霊的な啓示と豊富な供給の源となっています。
Ⅰ. ウオッチマン・ニー (1903-1972)
ウォッチマン・ニーは1903年、中国・福州で敬虔なクリスチャンの家庭に生まれました。彼の祖父、倪玉成(ニー・ユーチェン)は福州のアメリカ会衆派の大学で学び、福州北部の会衆派の中国人の初代牧師になりました。祖母や両親も熱心なクリスチャンとして教育を受け、キリスト教に深く根ざした家庭環境の中で育ちました。彼自身も福州の聖公会三一学院という、英語と中国語の教育水準が非常に高い教育機関で学び、両言語に熟達しました。
1920年代になると、中国全土で福音宣教が活発になり、多くの学生たちが福音を受け入れ、霊的な覚醒が広まりました。そのような霊的高揚の中で彼もまた17歳の時に劇的な回心を経験し、自らの人生をキリストに完全に委ねました。回心後、彼は新たに英語名をウォッチマン・ニー(Watchman Nee)、中国語名を倪柝聲(ニー・トゥォーシェン)に改名しました。「ウォッチマン」とは「見張り人」を意味し、夜の暗闇の中で時を告げ、人々を真理へと目覚めさせる役割を表しています。
A. ウォッチマン・ニーの務め
彼の働きは、当時の中国における形式的で伝統的なキリスト教のあり方に疑問を投げかけ、単に宗教的知識を持つことではなく、「キリストを命として内側で実際的に経験すること」を中心テーマとしました。彼はまた、教派や宗派を超えてキリストのからだである召会(教会)の真理を追求し、『正常なキリスト者の生活』『霊の人』『キリスト者の標準』をはじめ、多くの深遠な著作を通じて、真の霊的な生活の道を示しました。
しかし1952年、中国共産党による宗教弾圧のために逮捕され、約20年間にわたり投獄されました。獄中で多くの苦難を経験しながらも、彼は信仰を守り通し、1972年に殉教しました。ウォッチマン・ニーの肉体は滅ぼされましたが、彼が残した霊的遺産や著作は、中国国内のみならず世界中のクリスチャンに影響を与え続けています。
彼の人生と働きは、主の地上における回復の働きを進めるための特別な賜物であり、中国だけでなく、全世界の教会に霊的な覚醒をもたらす礎となりました。今日でもウォッチマン・ニーの著作や思想は、多くのクリスチャンが真の霊的経験を深めるための貴重な導きとなっています。
さらに詳しく知りたい方は、『キリスト者の標準』『神の福音』『勝利を得る命』『霊の解放』『歌の中の歌』などの著作を手に取ることで、ウォッチマン・ニーの教えや霊的洞察に触れることができます。また、ウォッチマン・ニーの伝記『今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー』なども、彼の人生と働きをさらに深く理解するための良書です。
Ⅱ. ウォッチマン・ニーの書籍
A. 神の福音
B. 勝利を得る命
C. 霊の解放
D. 歌の中の歌
E. キリストの奥義
F. 神聖な啓示の先見者
これらの書物は日本福音書房にてお買い求めいただけます。
出版元:日本福音書房
参考書籍
今の時代における神聖な啓示の先見者 ウォッチマン・ニー
出版元:日本福音書房
2025-03-16 | 初信者成就シリーズ
聖書は、どのクリスチャンも読むべきです。なぜなら、聖書は神の息吹かれたものであり、教えのため、叱責のため、矯正のため、義の中の訓練するために益があるからです(Ⅱテモテ3:16)。この記事では、「聖書を読みたいけど、何から、どうやって読めば良いかわからない人」のための一つの提案として書き進めていきたいと思います。
Ⅰ. 聖書を読むことの重要性
聖書は、神が過去においてわたしたちのために、どれほどの事をしてくださったかを見せています。また神が過去において人々をどのように導かれたかを見せます。神がわたしたちのために備えられたものがどれだけ豊かで、どれだけ豊富であるかを知るためには聖書を読まなければなりません。神が今日、人に語られる言葉はすべて、神がかつて語られた言葉に基づいています。神が聖書の中で語られなかった言葉をだれかに語られるということはまれです。ですから、神が今日語られることは、ご自身の言葉を繰り返して語られることです。もし人が、神がすでに語られた言葉を知らないなら、神の啓示を得ることは容易ではありません。なぜなら、その人は神に語っていただくための条件に欠けているからです。
聖書は偉大な書物であり、大いなる書物です。わたしたちが生涯の全時間をそれに費やしても、その一部に触れることができるだけです。人が時間をかけないで聖書を知ろうとすることは、不可能なことです。ですから、青年のクリスチャンは最善を尽くして神の言葉に時間を費やす必要があります。そうすれば、中年になった時、老年になった時、豊かな言葉をもって自分自身に供給でき、また他の人に供給できるようになるでしょう。
Ⅱ. 聖書を読むことの基本原則
聖書を読むのに四つの基本的原則があります。それは以下です。
- 事実を発見する
- 覚え、記憶する
- 分析し、分類し、比較する
- 神の照らしを受ける
聖書を読む時、この四つの順序に従うべきであり、第三から第一に飛んだり、第一から第三に飛んだりはできません。第一は聖書の中の事実を発見することです。第二にこれらの事実をしっかりと覚え、よくよく暗記します。神の言葉はどのように言っているかをはっきり知った後、それを記憶します。第三に、これらの事実を分析し、分類し、比較します。神の御前でこれらの事実をよく分析し、よく分類し、よく比較することができたなら、第四の神の照らしを得ることができます。聖書を読む上で、一番重要な点は「聖書の中から事実を読み取ること」です。これができたなら、聖書を読む上での半分の働きを満たしています。
例えば、地球の引力は一つの事実です。ニュートン以前でも、地球には引力が働いていましたが、幾千年も人は発見することができませんでした。ある日、ニュートンが木の下で眠っていると、ひとつのりんごが彼の目の前に落ちてきました。こうしてはじめて彼が地球の引力の法則を発見しました。ですから、問題は事実の有る無しではなく、この事実を発見されるかどうかです。
A. 聖書における事実を発見する具体例
ここで一つの簡単な例を取り上げます。新約聖書において、「主の中で」「キリストの中で」「キリスト・イエスの中で」という言葉は存在しますが、「イエスの中で」「イエス・キリストの中で」という言葉は存在しません。これは事実であり、この事実を知ることが第一の「事実を発見する」ということです。聖書において、「主の中で」と言っている箇所は何を言っているのか?別の箇所で使われる「キリストの中で」とは何を言っているのか?また、「キリスト・イエスの中で」とは何を言っているのか?これらの事実を覚えていれば、取り出して比較することができます。このように分析し、比較し、照らしを求めて神を仰ぎ望む時、わたしたちは何かを見ることができます。
神のあわれみによって光を見るなら、このことが相当はっきりします。このことを理解するためには「イエス」と「キリスト」の違いを理解しなければなりません。「イエス」は「彼の地上の名」であり、「キリスト」は「彼の復活の後の神に油塗られた名」です。
使徒行伝にはこのような御言葉があります。
「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主またキリストとされたのです」
使徒行伝 2章36節
この御言葉の意味はこうです。「イエス」という名前の方が、地上で生活し、十字架にかけられて死にました。しかし、神はそのイエスを死者の中から復活させ、神が油塗られた者に与える名、すなわち「キリスト」という新しい名を彼に与えました。ですから、イエスが主またキリストとされたのです。このことから、キリストは彼の復活の名であることがわかります。ローマ人への手紙には「キリスト・イエス」と書かれています(ローマ8:1)。この表現が意味するのは、「キリスト・イエス」という名前が、復活後のイエスの新しい役割と状態を指していることです。つまり、今日の「キリスト」は以前の「イエス」と同一ですが、強調点は復活後の「キリスト」としてのイエスにあります。また、地上にいたときの彼の名前は「イエス・キリスト」でした。これは復活前の名であり、このイエスは将来キリストになるということを意味しています。
要約すると、「キリスト・イエス」 は復活後の状態に強調点があり、「イエス・キリスト」 は復活前の地上での歩みに強調点があります。キリストが以前はイエスであった(キリスト・イエス)ということと、イエスが将来キリストになる(イエス・キリスト)というこの二つの意味は、異なっています。わたしたちは、ただ「キリストの中にいることができる」だけで、イエスの中にいることはできません。なぜなら、「キリスト」は復活後の神の力と命が現れている姿であり、わたしたちが霊的に結びつく対象であるからです。一方、「イエス」は地上における人間としての姿を指し、そのままではわたしたちが霊的に一体となることができません。これが聖書を読む方法です。
まず最初に聖書の中には「主の中で」「キリストの中で」「キリスト・イエスの中で」という言葉は存在するのに、「イエスの中で」「イエス・キリストの中で」という言葉は存在しないという事実を発見しました。これが第一です。第二にこの事実を覚え、記憶しました。第三にこの覚えた事実を分析し、分類し、比較します。分析した結果、「キリスト・イエス」は復活後に強調点があり、「イエス・キリスト」は復活前に強調点があることがわかりました。そして最後に神の御前に出て、祈ります。すると、主はあなたを照らし、さらにはっきりと見せてくださいます。これが聖書を読む四つの原則であり、どれが欠けてもいけません。
Ⅲ. 聖書を読む実行の方法
ここからは具体的にどのように聖書を読むべきかを交わりたいと思います。まずはじめに、聖書を読む時間を二段階に分ける必要があるということを言わなければなりません。その二段階は聖書の読み方が異なります。第一段階では聖書を黙想します。第二段階では聖書を通読します。
A. 前半の時間に聖書を黙想する
B. 後半の時間に聖書を読む
聖書を読む時間を二段階に分けるおすすめの方法は、午前と午後に分けて読むことです。例えば、早朝の時間に聖書を黙想し、午後の食事の後か就寝前に聖書を読むと言った具合です。後述しますが、後半はまとまった時間が必要なため、時間を確保できる時間帯にしましょう。聖書を読む時間を二段階に分ける理由は目的が異なるからです。前半の聖書を黙想する目的は、霊的命の糧を得て、自己の霊性を高めるためです。この時間に多く読み過ぎてはいけません。三節か四節で十分です。時間にすると15分程度です。後半の聖書を読む目的は、神の言葉の中でいったい何が語られているかを知るためです。この時間は比較的長い時間をかけて多く読みます。おすすめは30分です。
また、聖書を読む方法を二段階に分けるために、二冊の聖書を用意することをおすすめします。前半の時間に使う一冊には一字たりとも書かず、一つのしるしさえ書き込みません。後半の時間に使う別の一冊には、照らしによって見たことを書き込むようにします。言葉で書いても、丸で囲んでも、線を引いても自由です。この理由は、早朝に読む聖書に文字が書かれていると、即時的な語りかけではなく、自分の書き記した文字に気が取られてしまうからです。ですから、早朝に読む用の聖書には何も書き込みません。
A. 前半の時間に聖書を黙想する
聖書を黙想することについては、ジョージ・ミューラーの言葉を引用したいと思います。彼は次のように言いました。
「かつて主は喜んでわたしに一つの真理を教えてくださいました。これは人によってわたしに伝えられたものではありません。今に至るまでに四十数年になりますが、わたしはその真理の益するところを失っていないことを認めます。その要点はこうです。あの時、わたしは以前にも増してはっきりと見たのですが、わたしが毎日必ず注意している最大で一番先になす事は、主の中で喜ぶことです。まず注意すべき事は、わたしが主にどれだけ仕えて、いかに主に栄光を帰しているかではなく、わたしが内側でどのように喜びを得ているか、わたしの内なる人がどのように養いを得ているかにあります。わたしは未信者にメッセージすることができ、信者を成就し、苦難にある人を助けることができますし、別の多くの働きを通して自分が神の子であることをこの世において現すことができます。しかし、もしわたしが主の中で喜んでいないなら、内なる人が日ごとにその養いを得ていないなら、わたしがなす一切の事は、正しい霊の中でではないのです。
わたしがそのことをはっきりする前は、少なくとも十年の間、わたしは毎朝、洗面が終わると祈ることを習慣にしていました。そして、その時に知ったのですが、わたしがすべき事で最も重要なのは、神の言葉を読み、それを黙想し、わたしの心の慰め、励まし、警告、叱責、教訓を得る事なのです。わたしがこのように神の言葉を黙想している時、わたしの心は主と経験的に交わることができました。ですから、毎朝早くわたしは新約を黙想し始めました。わたしが数句の言葉で、主がご自身の尊い御言葉を祝福してくださるように祈った後、まず行ったのは神の言葉を黙想することでした。聖書の各節において尋ね求め、その中から祝福を得ようとしました。公衆の面前でメッセージするためではなく、またわたしが黙想した言葉について語るためでもありません。それはわたし自身の魂に糧を得させるためです。
わたしに決まって起こる結果として、数分後にわたしは罪を告白したり、感謝したり、あるいはとりなしの祈りをしたり、懇願するようになります。祈ろうと心がけようとするのではなく、黙想するのですが、たいていとてもすばやく、祈りに転向します。罪を告白したり、とりなしの祈りをしたり、懇願したり、感謝したりの時間を経て、わたしは再び次の句、あるいは次の節を読みます。読んでから、もし導きがあれば、わたし自身のためにあるいは他の人のために祈ります。しかしながら、相変わらずわたしの黙想の目的は、自分の魂が糧を得るためであることを覚えておきます。そのようにした結果、毎日、多くの罪の告白、感謝、懇願、とりなしの祈りがわたしの黙想の中に取り混ぜられて、わたしの内なる人は常に養いと力を感じることができます。朝食の時には、ほとんど例外なく、わたしの心の状態は、喜びがあるか、あるいは平安がありました。わたしの黙想は公衆の面前でメッセージするためではなく、わたしの内なる人の益のためでしたが、主が喜んでわたしに与えてくださったのは、すぐに他の信者の糧になるものでした・・」
神の子であるわたしたちが毎朝しなければならない第一の事は、内なる人のために糧を得に行くことです。わたしたちの外なる人は食べずに働くことができないのと同様に、毎朝わたしたちの内なる人も糧が必要です。内なる人の糧とは、祈りではなく、神の言葉です。これはただ単に神の言葉を読んで、水が水道管を流れるように、その言葉がわたしたちの思いを通過するだけのようであってはいけません。読んだ言葉を黙想し、それをわたしたちの心の中に適用しなければなりません。祈るのに最もよい時とは、内なる人が神の言葉を黙想して養いを得ることによって、御父に出会い、語っていただき、励まされ、慰められ、へりくだらされ、責められた後です。ですから、わたしたちは神の祝福の中で御言葉を黙想すべきです。
B. 後半の時間に聖書を読む
主を信じて間もない人は、少なくとも六ヶ月間は、研究する方法で聖書を読むには適切ではありません。なぜなら、聖書全体についてあまりよく知らないからです。必ず、先に数ヶ月間の時間を費やして、普遍的に聖書全体をよくよく読む必要があります。後半の時間では、聖書を順番に通読し熟考します。一章一章、一回一回、神の御前で継続して読みます。一番良いのは、一日に旧約を何章、新約を何章と決めて読むことです。あまり速すぎるのも、あまり遅すぎるのもよくありません。普遍的に、いつも続けて読みます。
ジョージ・ミューラーは一生のうちに旧約と新約を百回読みました。初信者の兄弟姉妹は聖書を読むことを学び、いったい何回読んだかを記憶するべきです。あなたの聖書の空白のページを、聖書を読んだ回数を記録するために残しておけばいいでしょう。読む方法は、一章一章、一回一回を順番にを原則とします。
早見表
項目 | 聖書を黙想する(前半の区分) | 聖書を読む(後半の区分) |
---|
時間帯 | 午前:早朝、朝食前 | 午後:昼食後、就寝前 |
目的 | 自分の魂の糧を得る | 神の言葉の中で何が語られているかを知るため |
聖書 | 書き込みをしない聖書 | 書き込みをする聖書 |
程度 | 三節か四節。多く読み過ぎてはいけません。 | 比較的長い時間をかける |
時間 | 15分 | 15分〜30分 |
Ⅳ. 実際に聖書を読んでみる
ここでは、どのように読み進めるべきかを実際にやってみます。
A. 前半の時間に聖書を黙想する
1. 読む聖書箇所を決める
これは、朝起きた時に、主との交わりの中で自由に決めるのが良いでしょう。重要なことは、聖書を理解すること、順番に読むことではなく、自分の魂が糧を得ることです。
2. 御言葉を区切って読み、黙想する
エペソ人への手紙第二章六節を例に実践してみます。
キリスト・イエスの中で、わたしたちを彼と共に復活させ、彼と共に天上で座らせてくださいました。
エペソ人への手紙 2章6節
まず、この節を一度読んでみます。その後、「、」で区切りながら、小分けにして読んでいきます。すると、三つに小分けすることができます。
- 「キリスト・イエスの中で」
- 「わたしたちを彼と共に復活させ」
- 「彼と共に天上で座らせてくださいました」
そして、この一つ一つを味わいながら読み、黙想します。
「キリスト・イエスの中で・・・(黙想)」「キリスト・イエスの中で・・・(黙想)」
ポイントは二度、三度ではなく、何度も何度も固い食べ物を咀嚼するように噛み締め、味わうことです。これを続けるなら、あなたの内側にある感覚が起こされます。例えば、自分はキリスト・イエスの中にいるという安息。自分は主のものであるという平安。自分はこの世の中にはいないという照らしなどです。この時、感謝の思いが与えられれば、主に感謝をささげます。賛美の思いが与えられれば、主に賛美をします。祈る思いが与えられれば、主に祈ります。
そして、次の区分に移ります。
「わたしたちを彼と共に復活させ・・・(黙想)」「わたしたちを彼と共に復活させ・・・(黙想)」
ここでわたしたちは、キリストと共に復活させられたという事実を知ります。真にこの事実を見るならあなたはこのように祈るでしょう。「おお、主よ!あなたが復活した時、わたしもあなたと共に復活しました!主よ!わたしはすでに復活の中にいます!主よ!あなたをほめたたえます!」このように、御言葉の祝福の中で主と交わるなら、あなたは多くの励まし、慰め、力を得るでしょう。これが聖書を黙想する方法です。
B. 後半の時間に聖書を読む
聖書を読むにあたり、聖書を読み終えるのにどれくらいの時間が掛かるかを知ることは助けになります。聖書の章の数は「旧約聖書 929章」「新約聖書 260章」で合わせると全聖書は1189章あります。新約聖書を例にあげます。もし一日に一章を読み続けるなら、約八ヶ月で読み終えます。一日に二章なら約四ヶ月、三章なら三ヶ月で読み終えます。平均的に新約聖書の四章は十五分で読むことができます。毎日十五分、四章を読み続けるなら二ヶ月に一回のペースで新約聖書を読むことができます。おすすめは一日に30分間、聖書を読む時間を確保します。その30分間で新約聖書か旧約聖書を通読します。
注意すべきことは、昨日15分、今日は30分、明日は1時間のように、その日の気分に合わせて読まないことです。聖書を読むことは一生涯続けることであり、コツコツと積み重ねていくべきことです。ですから、主との交わりの中で15分と決めたなら、最低でも半年はこのスケジュールで実行します。余裕を見て、段階的に時間を伸ばしていく分には問題はないでしょう。しかし、毎日2時間など読みすぎることもおすすめしません。主の導きがありますように。
早見表(新約聖書)
● 読みたい頻度 | ● 1日に読む章数 | ● 所要時間 |
---|
1 回 / 1ヶ月 | 9章 | 約35分 |
1 回 / 2ヶ月 | 4章 | 約16分 |
1 回 / 3ヶ月 | 3章 | 約12分 |
1 回 / 4ヶ月 | 2章 | 約8分 |
1 回 / 8ヶ月 | 1章 | 約4分 |
まとめ
聖書を読むのに四つの基本的原則があります。
- 事実を発見する
- 覚え、記憶する
- 分析し、分類し、比較する
- 神の照らしを受ける
最も重要なことは「事実を発見すること」です。その事実を覚え、記憶し、研究のために分析、比較します。そうすることによって神の照らしを受けることができます。
聖書を読む具体的な方法は、二段階に分けて読むことです。
A. 前半の時間に聖書を黙想する
B. 後半の時間に聖書を読む
前半の「聖書を黙想する」では、御言葉を味わい、祈りや賛美をささげ、御言葉を通して主と交わります。それは霊的な命の糧を得るためです。後半の「聖書を読む」では、決めた時間、節を順番に一章一章読み進めていきます。このように読む章を決めて、また時間を配分して聖書を読むことは、自分にとっての訓練となります。わたしたちは腰に帯を締め、拘束され、神の御前で規律がなければなりません。あなたが30分読むと決めたなら、この30分を守り抜くようにしてください。病気であるとか、休暇で休む時を除いて、一定の時間を維持しましょう。毎日続けていけば、間もなく収穫があるでしょう。
参考資料
ウォッチマン・ニー全集 第三期 第四十八巻 初信者を成就するメッセージ(一)第九編
出版元:日本福音書房
※ 本記事で引用している聖句に関して、明記していなければすべて回復訳2015からの引用です。
「オンライン聖書 回復訳」