JGW日本福音書房が発行した、2021年4月の『国際長老責任者訓練』のためのアウトライン『召会生活の回復のための極めて重要な要因』のページ10〜16、すなわちメッセージ1「務めの書物からの抜粋」の転載です。

12のサブタイトルがございますが、すべてに「愛」という単語が含まれています。

(1)神の愛はわたしたちを動機づけて、わたしたちの敵を愛させる

神の愛は、彼の子供たちであるわたしたちを動機づけて、わたしたちの敵を愛させます。それは、わたしたちが彼のように完全になるためです。神は、彼の敵となった堕落した人類を愛されます。それは、邪悪な者にも善なる者にも差別することなく彼の太陽(キリストを表徴する)を昇らせ、正しい者にも不正な者にも等しく雨(その霊を表徴する)を降らせることによってです。こうして、わたしたちは取税人や異邦人から聖別された、天の父の子となることができます(マタイ5:43-48)。全人類は神の敵となりましたが、神はなおも人類を愛されます。もし神がわたしたちにキリストを差別して遣わされたとしたら、わたしたちは救いを受ける資格がありませんでした。神は邪悪な者にも善なる者にも差別することなく太陽を昇らせてくださいます。

わたしたちは人を愛することで、神のようであるべきです。取税人は、自分を愛する者を愛するだけです。主は言われました、「あなたがたは、自分を愛する者を愛したからといって、どんな褒賞を受けるのだろうか?取税人でさえ、同じことをしているではないか?」(46節)。もし自分を愛する者だけを愛するなら、わたしたちは取税人と同じ種族です。しかし、わたしたちが最高の、神聖な種族に属するなら、善人と同じように、邪悪な者、敵をも愛します。これは、愛としての神がどのようにまさるかを見せています。

バイタルグループは、卓越したグループであるべきです。バイタルグループがまさっている証拠は、差別せずに人を愛することです。あるキリスト教の働き人は、ある人たちには永遠の滅びを受けさせるべきであると感じているようです。彼らは、あのような銀行強盗は愛さないと言うでしょう。しかし、キリストが十字架につけられた時、彼と共に二人の強盗も十字架につけられました(マタイ27:38)。そのうちの一人が言いました、「イエスよ、あなたがあなたの王国に入られる時、わたしを覚えてください」(ルカ23:42)。イエスは彼に言われました、「まことに、わたしはあなたに言う.今日あなたは、わたしと一緒にパラダイスにいる」(43節)。キリストによって、彼の十字架を通して最初に救われた人が紳士ではなく、死刑判決を受けた犯罪人、強盗でした。これはとても意義深いのです。

(2)愛は建造する

コリント人への第一の手紙第8章1節後半は言います、「知識は人を思い上がらせますが、愛は人を建造します」。愛のない教えは、わたしたちを思い上がらせるでしょう。わたしたちは務めのメッセージを聞いても、単なる知識であれば思い上がるかもしれません。知識は建造しません。愛が建造するのです。

(3)愛は最も大いなるものである

愛はねたむことをせず、いらだたず、人の悪を数えたてず、すべてを覆い、すべてを耐え、決して絶えることがなく、最も大いなるものです(Ⅰコリント13:4-8、13)。ねたみはわたしたちの性質の中にあります。家族の中に赤子が生まれると、他の子供たちにねたみが生じるかもしれません。ねたみは、現在の召会生活の中にもあります。一人の姉妹は、別の姉妹が祈り預言するときに聖徒たちからの多くの「アーメン」があると、ねたみが生じるかもしれません。兄弟たちは、別の兄弟が長老職に立てられるのを見て、ねたむかもしれません。召会生活を六十年以上もして、わたしは証しすることができますが、最も難しい事の一つは長老を立てることです。もし一人の兄弟を立てると、別の兄弟はねたみのゆえに、つまずくかもしれません。一人の姉妹がシスターズハウスを導くように言われると、別の姉妹たちはねたむかもしれません。しかし、愛はねたむことをしません。また、愛はいらだちません。人が容易にいらだつのは、愛に欠けているしっせきからです。神聖な愛で満たされているなら、どれほど叱責されてもいらだちません。愛は人の悪を数えたてません。わたしたちは、人の悪を数えたてたことを告白しなければなりません。ある妻は、夫の失敗や欠点を記録し、勘定しています。この記録は書かれていなくても、思いの中にあります。彼女たちは夫の悪を数えたてています。長老たちは牧養するとき、人の悪を数えたてるのではなく、人の罪を覆わなければならないことを認識する必要があります。愛は良い事だけでなく、悪い事も、すべてを覆います。召会の肢体の欠点、短所、罪を暴露する者はだれも、長老としては失格です。長老職の下で肢体を暴露するなら、牧養する資格はありません。愛はまたすべてを耐え忍び、決して見捨てることはありません。コリント人への第一の手紙第13章はこう言って結びます、「こういうわけで、永存するものは、信仰、希望、愛、この三つです.そして、その中で最も大いなるものは愛です」(13節)。

(4)愛は、すべての霊的美徳の結論であり、また実を結ぶ要因である

愛は、すべての霊的美徳の結論であり、また実を結ぶ要因であって、わたしたちを豊かに、あふれるばかりに供給して、キリストの王国へと入らせます(Ⅱペテロ1:5-11)。

(5)からだは、愛の中でそれ自身を建て上げる

キリストのからだは、愛の中でそれ自身を建て上げます(エペソ4:16)。「愛の中で」という句は、エペソ人への手紙で繰り返し用いられています(1:4.3:17.4:2、15-16.5:2)。神は愛の中で、この世の基が置かれる前から、わたしたちを子たる身分へと、彼ご自身へあらかじめ定められました。キリストのからだは、愛の中でそれ自身を建て上げます。命の成長たかねは愛の中でです。この数年、主がわたしたちに神聖な啓示の高嶺を見せてくださったことを感謝します。わたしの心配は、わたしたちが高嶺の真理について語っても、わたしたちの間に愛が欠けるのではないかということです。もしそうであれば、わたしたちは建て上げられるのではなく、思い上がるでしょう。キリストのからだは、愛の中でそれ自身を建て上げます。

(6)神がわたしたちに賜わるのは、愛の霊である

神がわたしたちに賜わった霊は、聖霊によって再生され、聖霊が内住している人の霊です。この霊は愛の霊です。ですから、それは力と冷静な思いとの霊です(Ⅱテモテ1:7)。わたしたちはとても力に満ち、冷静であると思うかもしれませんが、わたしたちの霊は愛の霊ではありません。わたしたちは力と冷静さに満ちた方法で人に語りますが、わたしたちの話は彼らを恐れさせます。

パウロは、わたしたちは自分の賜物を再び燃え立たせる必要があると言いました(6節)。神がわたしたちに賜わった主要な賜物は、神の霊、神の命、神の性質を伴った再生された人の霊です。わたしたちはこの賜物を燃え立たせなければなりません。これは、わたしたちが霊をかき立て、霊が燃やされなければならないことを意味します。ローマ人への手紙第12章11節は、わたしたちは霊の中で燃えているべきであると言います。もしわたしたちの霊が愛の霊でないのに、わたしたちが炎になって燃えるなら、消極的に回復全体を燃やすでしょう。

わたしたちは破壊する権威の燃える霊ではなく、愛の燃える霊を持たなければなりません。テモテへの第二の手紙で述べられていることは何であれ、召会の堕落に直面するための要求です。どのようにして召会の堕落に打ち勝つことができるのでしょうか?わたしたちは愛の燃える人の霊を持たなければなりません。今日の召会の堕落の下で、わたしたちはみな愛の霊を燃え立たせて、霊の中で燃えている必要があります。このように愛はまさるのです。

何年ものわたしの観察によれば、大部分の同労者は「力」の霊を持っていますが、愛の霊を持っていません。わたしたちは今日の召会の堕落に打ち勝つために、愛の霊を必要とします。わたしたちは人を恐れさせることを何も言ったり行なったりすべきではありません。むしろ、わたしたちは常に、燃え立たせられた愛の霊をもって語り、事を行なうべきです。これが、回復が必要とするものです。

(7)愛さない者は、死の中に住んでいる

ヨハネの第一の手紙第3章14節後半は、愛さない者は死の中に住んでいると言います。わたしたちは、自分は生きていると思うかもしれませんが、愛さないなら死んでいるのです。もし兄弟を愛さないなら、わたしたちは死の中に住んでおり、死んでいます。しかし兄弟を愛するなら、わたしたちは命の中に住んでおり、生きているのです。

(8)愛を追い求める

コリント人への第一の手紙第13章は愛について語っており、次の第14章は、わたしたちは霊の賜物を願い求めている時、愛を追い求めるべきであると言って始めます(1節)。賜物を願い求めることは、愛を追い求めることを伴っていなければなりません。そうでないと、賜物はわたしたちを思い上がらせます。

(9)純粋な心で主を尋ね求める人たちと共に、愛を追い求める

召会の堕落に打ち勝つために、わたしたちは純粋な心で主を尋ね求める人たちと共に、愛を追い求める必要があります(Ⅱテモテ2:22)。わたしたちは主を尋ね求める一組の人と共に、愛を追い求める必要があります。これがバイタルグループです。

(10)わたしたちがキリストに属していることのしるし

互いに愛し合うことは、わたしたちがキリストに属していることのしるしです(ヨハネ13:34-35)。わたしたちはキリストに属していることの外側のしるしを持つ必要はありません。主の回復のすべての聖徒たちが互いに愛し合っているなら、全世界はこれらの人たちがキリストに属していると言うでしょう。

(11)神の愛はわたしたちを勝ち得て余りある者とする

神の愛はあらゆる環境でわたしたちを勝ち得て余りある者とします(ローマ8:35-39)。もしわたしたちが勝ち得て余りある者となりたいなら、わたしたちにはキリストの愛と神の愛が必要です。

(12)愛は最も卓越した道である

コリント人への第一の手紙第12章の終わりは、愛が最も卓越した道であることを啓示しています(31節後半)。どのようにして長老になることができるのでしょうか?愛が最も卓越した道です。どのようにして同労者になることができるのでしょうか?愛が最も卓越した道です。どのようにして人を牧養するのでしょうか?愛が最も卓越した道です。わたしたちが預言し人を教えるために、愛が最も卓越した道です。わたしたちが何であっても何を行なっても、愛が最も卓越した道です。

愛はまさっています。わたしたちはすべての人を、敵でさえ愛すべきです。もし同労者や長老が悪い人を愛さないなら、最終的に彼らは何も行なうことがないでしょう。わたしたちの御父が、邪悪な者も善なる者も何の差別もなく愛することによって完全であられるように、わたしたちも完全でなければなりません(マタイ5:48)。わたしたちが御父のように完全でなければならないのは、わたしたちが彼の子たち、彼の種族であるからです。これが最も重要なことです。どのようにしてわたしたちは同労者、長老となることができるのでしょうか?それはあらゆる面で愛によります。わたしたちはどのような人も愛さなければなりません。主イエスは、彼が来たのは医者として、健康な人のためではなく、病んでいる人のためであると言われました。主は言われました、「丈夫な人には医者はいらない.いるのは病んでいる人である」(9:12)。

召会は、人を逮捕する警察署や人を裁く法廷ではなく、信者たちを育てる家庭です。親は、子供が悪ければ悪いほど、ますます育てる必要があることを知っています。もし子供が御使いであるなら、親が彼らを育てる必要はありません。召会は愛の家庭であり、子供を育てます。召会はまた病院でもあり、病人をいやし回復します。最後に、召会は学校であり、あまり理解のない人たちを教え啓発します。召会は家庭、病院、学校であるので、同労者と長老は主と一になって、愛の中で人を育て、いやし、覆い、教えるべきです。

しかしながら、いくつかの召会は、罪人を逮捕する警察署、彼らを裁く法廷です。パウロの態度は異なっていました。彼は言いました、「だれかが弱っているのに、わたしが弱らないでおれましょうか?」(Ⅱコリントかんいん11:29前半)。聖書学者とパリサイ人が、姦淫の女を主の所に連れて来た時、主は彼らに言われました、「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。彼らがみな去って行くと、主はその罪深い女に言われました、「女よ、彼らはどこにいるのか?だれもあなたを罪に定めなかったのか?」。彼女は言いました、「主よ、だれもいません」。イエスは言われました、「わたしもあなたを罪に定めない」(10-11節)。だれが罪のないものでしょうか?だれが完全でしょうか?パウロは言いました、「弱い人には弱くなりました.弱い人を得るためです」(Ⅰコリント9:22)。これが愛です。他の人は弱いが自分はそうでないと考えるべきではありません。これは愛ではありません。愛は覆い、建造します。ですから愛は、わたしたちが何であり何を行なっても、キリストのからだを建造するのに最も卓越した道です。(バイタルグループ、メッセージ5)

 

『2021年4月国際長老責任者訓練』アウトラインメッセージ1「務めの書物からの抜粋」

著作権はJGW日本福音書房に帰属します。

おすすめの記事